丸山清次郎について
丸山清次郎氏は、現在の燕市寿町(当時の太田村)の、煙管製造業の生家で少年時代を過ごされた。成年に達して上京され神田に煙管販売の店舗を構えられた。しかし、翌年の関東大震災に遭遇、築かれた礎は一瞬にして灰燼に帰してしまった。
だが、丸山氏の持ち前の先見性と行動力により、直ちに台東・西町に店舗を移し業務を再開された。以後、昭和6年に喫煙具の生産・販売を主力とする会社を設立され、現在のウィンドミル㈱に至るまで、社業の発展をひたすらに導いてこられた。
日本喫煙具協会のある社長は往時を偲び、「丸山さんは、私ども若輩にとって眩しいような存在でした。飾らない気さくな方で、新人の私たちにも何かと気を配ってくださいました。
また、商機をつかむ達人でもあり、私たちのリーダーとして、心の支えになってくださる方でした」という文章を業界紙に載せていた。蒐集の要件としての本来の《財》だけでなく、丸山氏を囲む広くて暖かい《人の輪》もまた、大きな《財》であったのではなかろうか。
業界の親睦旅行には丸山氏もよく参加されていた。行く先々の町では骨董店を丹念に見て回られたという。
「常に求め続けていればヒトだけでなく、モノとの間にも、一種の感応作用が生じる」と、C・G・ユングは書いている。おそらく丸山氏も、熱心な蒐集者のみが持つモノとの出会いの感動、モノを手にした瞬間の手応えなど、店頭での嬉しい《出会い》の体験を持たれたに違いない。
また、丸山氏とは竹馬の友であり煙管制作者でもある野島厚次氏に、「私の手元に品物を持って来てくれる人は、私を信じてくれている人だ。だからいつも相手の言い値で譲り受けることにしている。そうすれば次からは、もっと良いものが黙っていても集まってくるようになる」と語っておられたという。
蒐集には丸山氏の明確な理念があり、それに基づいて蒐集品の構造も自ら出来上がっている。それまでいろいろな場に置かれていた作品が、この構造に組み込まれることによって新たな価値を得、まるで星座に加えられた新星のような輝きをもってよみがえる。
作品と人、人と作品、それぞれの間の数知れぬ、しかも幸運な《出会い》の中心には、いつも丸山氏自身が居られたのである。
煙管やたばこ入れは、ただの喫煙の道具というだけでなく、江戸~明治の庶民、特に男にとっては、唯一の装身具としてもてはやされてきた。
庶民は煙管について、まず形にこだわり、そして装飾に気を使った。装飾とはほとんど彫金であり、その細工は手にとって初めてその意匠や細工を見分けることができるものである。自分の趣味・嗜好に合った煙管を得るため、彼らはいかなる労苦も厭わなかった。
丸山コレクションの展示品からも、煙管、たばこ入れなどそれぞれの素材の贅沢さ多様さ、金具・根付の凝りに凝った技巧による極細美、色・形模様の粋な組み合わせ、それらには、さまざまな生活規制に縛られていた庶民の繊細かつ屈折した洒落心を見ることができる。
丸山氏は蒐集にあたって「もともと煙管に執着があり、別けても彫金技術の優れたものを集めたい」と語っておられたという。展示ケースに並べられている羅宇煙管の雁首や吸口、そして延べ煙管の胴の部分には、象嵌、片切彫、毛彫、高肉彫など、巧緻で気韻のある彫金技法が施されている。いずれも、加納夏雄をはじめ香川勝広、海野勝珉、豊川光長、桂光春など、当代の名匠といわれる人々の手になるものばかりである。これらをしばらく凝視していると、精妙極めた「美の小宇宙」が、うっとりと眼前に明けてくる思いがする。そして、比類のない逸品ぞろいのこのコレクションは、すべてこれ丸山氏の卓抜な《眼識》によるものであることを、改めて思い知らされるのである。